起きた瞬間なんとなく腹痛がする。二度寝したい気持ちと戦って、しないと心に決める。起き上がったそのままの体勢でぼーっとしていると設定していた8:00のアラームが鳴り、すぐに止めた。カーテンと窓を開けると、若干の日差しと冷たい空気が入り込み、少し視界がクリアになる。
机に向かい、いつものジャーナリングを始める。頭に浮かんだことをただただ紙に書いていくという作業だが、今この瞬間に集中して自分に向き合う時間が好きで、最近のルーティンになっている。今日は車の走行音とコジュケイのさえずりと隣の部屋の掃除機の音が混ざって聴こえてきて、変わった取り合わせだなと思いながらペンを走らせる。
ずっと溜めていた申し込み関係の作業を終わらせ、明日必要な楽譜と語学の資料を印刷する。そういえばと、靴の底がすり減りくたびれかけているのを思い出し、今履いているのと同じ物を注文する。なぜか電車に乗っていると足に必要以上の力をかけてしまうようで、片道2時間通学の今の生活になってから靴をすぐに履き潰してしまうようになった。
お昼前に家を出て、ザ・シンフォニーホールで行われるチョ・ソンジンのコンサートに向かう。2015年のショパン国際ピアノコンクールで優勝した、世界の第一線で活躍するピアニスト。一度聴いてみたいと思っていたものの中々タイミングが合わず、生で演奏を聴くのは今回が初だった。
ステージに登場し、丁寧にお辞儀をすると、すっと座りすぐに鍵盤に触れるようにして演奏が始まる。プログラムは前半がラヴェルのソナチネ、高雅で感傷的なワルツ、夜のガスパール、後半がリストの巡礼の年第2年イタリアという華やかな構成。最初はただただ音が美しいと思いながら聴き入っていた。しかしふとした時に、音を紡いでいく様子が、作曲家が音と戯れながら作品という一つの世界を創り上げていく過程と重なって見える。色を混ぜたり、香りを調合したりするような、魔術的な何かすら感じる。ピアノという一つの楽器からあらゆる種類の音が発され、感情の機微や色の濃淡の繊細な変化を想起させる。そこに一つの世界、自然を見ているかのようで、決して作為的なものを感じさせない美しさがあった。ピアノという楽器のポテンシャルの高さを、これほど体感できたことはない。
少し冷静になり、不自由さが一切見えない圧倒的なテクニックがそれを可能にしていることに気付 かされつつも、そこに意識を向ける余裕はなかった。というのも、途中から奏者の存在がいつの間にか意識から消え、音がただそこに存在しているような感覚になった。奏者がピアノを弾いて音を出しているはずなのに、一つの生き物のように音自体が意思を持って動いている。そこに奏者と楽器以外の何かがいた気がした。演奏が終わり、没入から抜けた瞬間、怖さを覚えた。
拍手が鳴り止まない中、後ろから聞こえた「上手いわー、やっぱり上手いわー!」という女性の声 が妙に頭に残り、「上手い」という言葉になんとなく引っかかりながら会場を出る。不思議な時間だったな、とコンサートの余韻を噛み締めながら電車に揺られ、家に着く。長時間同じ体勢でいた肉体的な疲労と、かなりの集中力を使い感情が強く揺れ動いた精神的な疲労からか、気がつけば30分ほど眠っていた。
夕飯を取った後、ピアノに向かう。心を静かにして椅子に座り、地面、足、腰、脊椎、首、頭とぶら下がっている腕を意識して手を鍵盤の上に置く。手の平や指で鍵盤と触れる感覚をできるだけ繊細に感じ取る。ブラームスのOp.116-6。「心の一番大切なものを見せるように。自分自身が心の深いところにひっそりと入っていくように。」という師の言葉を反芻して、練習を始める。音と音の間に耳を澄まし、作品が求める表現を探す。時々楽譜の横に置いた紙に考えを吐き出し、整理する。音楽的な分析と体の動きの分析、考えることの多さに頭の中がだんだん混沌としてくるのをなんとか解きほぐす。
練習を終え防音室から出るとき、ピアノという楽器に対してこれまで感じたことのない深いリスペクトの気持ちが湧いていた。
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