「あっ」と声を上げてしまった。
昼過ぎ、職場でメールを打っていると、向かいの席に座る同僚が何かに気がついたように「あっ」と声を漏らす。その瞬間、脈絡なくひとつの記憶がポッと顔を出す。
生誕一万日記念日。
27歳になった僕は、今年のどこかで生まれてから一万日を迎える。先々月くらいにそのことに改めて気が付き、そろそろだなと密かに待ちわびていたのだ。とはいえカレンダーにメモもせず、ただ記憶の片隅に残していただけだったから、案の定忘れてしまった。
そのことを、同僚の「あっ」という声で思い出したのである。
ただ経験的に言って、この忘れ方/思い出し方はよくない。バイトの面接を忘れて小旅行に来てしまったとき、持ってこなければならない書類を家に置いてきたとき、それらの記憶は「すでに過ぎ去ってしまったこと」「決して取り返しのつかないこと」として突如として思い出されるのである。
脳の中で、小さな破裂音がする。ぷちと弾けて、「やっちまった〜」との思いが頭の中を濁流のように覆っていく——今回もあの嫌な感じがする。
こっそりスマホを取り出して、「生誕一万日」と検索。やはりというべきか、自分の誕生日を入力するとその人の生誕一万年記念日を教えてくれるWEBサイトに行き当たる。
ちょっとした諦めと、ささやかな期待とともに検索をかける。
僕の生誕一万日記念日は、一週間ほど前に過ぎ去っていた。
まあわかっていたことだ。それほど落胆するでもない。大体一万日生きたからといってなんなんだ。祝いの理由なんてものは、いくらでもでっち上げることができる。バレンタインデーにチョコを配るのは製菓会社のマーケティングだという話も聞いたことがある(真偽は知らん)。この一万日記念日も、どうせそういう押し付けられた記念日にすぎない。資本の思いつきに惑わされてはならない。
そんなことを言ってみる。が、なんとも虚しい。だって一万日だぜ。桁がちがうとはこのことだ。数日前は、個人史における世紀末だったのに。
でもその日に日記を書いていたら、僕が生まれてから一万日目の日がどのように過ごされていたかを、事後的にではあれ知ることができる。どんな日記を書いたっけ……。
サボっていた。
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