母親が福袋で購入した高級コーヒーを少しだけ分けてもらった。ここ数日、毎朝そのコーヒーを一杯飲んでいる。両親ともども熱心なコーヒー愛好家というわけではないので、おそらくは購入の目的に僕へのプレゼントという要素もあったと思い、なんだか少しだけ身が引き締まるような気持ちになる。健康的で人並みにストイックな生活を期待してくれているはずだ。
それはともかくとして、淹れているコーヒーが高級であるという事実は、一つひとつの所作を少しだけ丁寧にしてくれるような気がする。近所のスーパーで購入した特にこだわりのないコーヒーを淹れるのとは、向き合う態度が異なってくる感覚。
いつもならばジャバジャバとお湯が溜まるくらい大雑把にお湯を注ぐのだが、この粉に対しては、ポットの角度を繊細にコントロールしてポトリポトリと雫が垂れるように気を配る。ちゃんと蒸らす時間を確保し、濡れた粉をじっと見つめる。
正直なところ、高級な粉と丁寧な淹れ方によって、コーヒーの味が格段に変化したかはわからない。実は高級な粉でもないし、淹れ方も致命的に間違っているのかもしれない。けれども、「高価なものであるとされている」ものが生活の中にあると、労働が始まり忙しなく進んでいく時間の中で、いわゆる「丁寧な暮らし」を取り戻してくれるような気がする。いや、もう「丁寧な暮らし」なんて言いたくはないんだけどね。
振り返ってみれば、一人暮らしを始めたタイミングで目指した「丁寧な暮らし」は見せかけのファッションであった。というのも時間は豊富にあり、未来は無限に明るく広がっており、つまりは何かに駆り立てられるような焦りが実質として存在せず、そもそもの生活が「丁寧な暮らし」に覆われていたのだ。丁寧とは自分の時間を自分でコントロールするということである。
まあこんなことも言いたくはないが、日に日に自分がコントロール可能な時間というものは減っていく。何かの締め切りに追われ、体力は少しずつ低下し、生活の大半がなんらかのToDoに占められていく。その中で、「丁寧にコーヒーを淹れる」時間は、明らかに優先度としては劣後する。パパッと淹れたところで、別に味なんてほとんど変わらない。しかしながら、労力と結果が釣り合わない時間を確保することが、それでもなお大切なのだとは声を大にして言い続けたい。
結局は同じことを手を替え品を替え言っているだけだ。


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