通勤の電車で、かすかに殺伐とした空気が漂う。誰しもが心理的なパーソナルスペースを死守しているような空間で、ふと、裂け目が開くような瞬間。スマホに向けていた目をあげて、そのわずかな違和感に視線を向ける。
扉ひとつぶん離れた先で、人が倒れたらしい。車内はそれなりに混雑しているからその光景を目視することはできないが、乗客の一人が非常停止ボタンを押して車掌と話をしている。人が倒れています——。次の駅で停車します——。冷静な乗客の女性と、心地よくノイズの乗った車掌の声が車内に響く。
電車は駅で停車する。と、ものの10秒くらいで駅員が駆けつけてくる。スマートに車内に入り、該当の女性の肩を支えてホームに連れ出す。するとその頃にはもう一人の駅員が車椅子を持って準備をしている。先に到着した駅員は女性のケアをもう一方の駅員にパスをして、後方へと走り去っていく。オペレーションの見事な手際に惚れ惚れとする。
乗車しているスタッフと駅で待機しているスタッフとの連携がなされたのだろうか。しかし、SOSが鳴ってから本の1、2分の出来事である。「訓練されている」美しさを久々に見た気がする。「オペレーションの美学」とでも呼びたくなる。
話は一気に個人的な過去へと遡るが、遠いむかし野球をやっていたころ、僕はこうした集団のスマートな連携を重視する考え方に不信感を持っていた。「強豪チームのランニングは足がそろっている」「彼らはランニングだけで相手チームを威圧する。その時点で勝敗は決するんだ」監督やコーチはよくそんなことを言っていた。
「それは野球の実力と関係のないことだ」と思っていた。足がそろっていないランニングをするたびにやり直しをさせられたり、大会前に行進の練習をさせられたりすることに違和感を覚えていた。もっと本質的に、野球の実力をつけられるような練習をしたいと思っていた。
が、今となっては、そうしたチームの鮮やかな連携を鍛えることは、やはり意味があったのだと思う。無駄のないコミュニケーションと、一個の塊として構築された集団の強さ。相手チームに勝利したり、緊急時に人を助けたりする目的に際して、そのような「統制」は効果がある。事実、僕たちは「ランニングの足がそろっている」チームに負けてばかりいたし、京急電鉄の社員は電車の遅延をほとんど許すことなく倒れた乗客をケアしたのだ。
そして、その姿はどこか美しい。


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