休憩がてらの雑談中、「最近Googleの経路検索の仕様が改悪された」という話を同僚から聞く。「◯◯から◯◯」と検索をすると、以前は電車の番線やら何号車に乗るべきかという細かい情報を教えてくれたのだが、最近になってその表記がなくなったのだという。僕はこれまで経路検索にGoogleマップを使っていたから、一瞬なんの話かわからなかった。まあ、確かに普段使いしているプラットフォームが変わったら、不満を覚えるのも仕方がないと思う。
ただ、その雑談とは本来的には関係がないのだが、そこで思ったのは「何号車に乗るのが効率的とか調べるのだるくね」ということだった。大雑把に調べたところで、別に乗り換えが一本早くなるわけでもないし、単に電車を待つ時間が少し伸びるだけだろう、と。
そんなことをふと考えていると、「移動の際に何号車に乗るべきか下調べをする人間」と「何号車に乗るべきかなんてどうでも良いと思っている人間」って最悪な組み合わせだな、とふと思う。どっちが良い悪いではなく、たとえば生涯を共にするとなった際に、この対立は朝型VS夜型に匹敵するくらいの致命的なズレにつながるのではないか、と。
で、この対立は何なのだろう、と考えてみると、それは「偶然を許容できないかVSできるか」みたいな価値観のズレなのかしら、と思ったりもする。が、それはどうにもポジショントークな気がしてしまう。だって「偶然を許容できる」方がかっこいいし、それは「何号車に乗るべきかなんてどうでも良いと思っている」という自分の性格をかっこいい側に置くための戦略なのではないかと思ったりするわけだ。
ただ、ここには何かしらの根本的かつ重要な二項対立が潜んでいるだろうとは思う。トップダウンVSボトムアップ・戦略VS戦術・軍師VS歩兵。
うーん。なんかピンとくるようでピンとこない。どれもこれも、資本家VS労働者的な枠組みの中にある気がする。
いやはや。一体何を考えているのだか。


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