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2024年8月7日

運営の日記

朝は大抵コーヒーを淹れて、それをちびちびと啜りながらパソコンを眺めたり日記を書いたり語学の勉強をしたり本を読んだりする。たかだか1時間あまりの時間だが、1日の中で最も自由でかつ最も元気が漲っていて、これ以降は気力体力ともに下がっていくばかりだ。

そんな悪くない習慣があるのだが、今日は少しばかり様相が異なる。というのも、僕の手元にコーヒーがないのである。

コーヒー豆を切らしたり、コーヒーを淹れる時間がなかったり、氷がなかったりして(真夏限定)、朝ベストのコーヒーにありつけないことは多々あるのだが、今日はそれとは別。

コーヒーを淹れるためのフィルターがない。

豆や時間がないのなら納得がいくのだが、フィルターを切らすことなんて滅多にないので、ちょっと拍子抜けした気分になる。それに数日前からフィルターが足りなくなっていることなんてわかっていたわけで、それでなお準備を怠っている自分の怠惰さにも腹が立つ。

コーヒーの豆は遍在していながらドリップ・フィルターが近くに見あたらぬと、不意に親しい女性のお尻が見えてきたりするのはなぜか|些事にこだわり|蓮實 重彦|webちくま
蓮實重彥さんの連載時評「些事にこだわり」第16回を「ちくま」11月号より転載します。ありふれた朝食について、パンについて、コーヒーについて、コーヒーを淹れるためのドリップ・フィルターについて、なめらかに横滑りする行文は果たして半世紀以上前の...

そういえば昔、蓮實重彦がフィルターの不在からプルーストよろしく過去の淫靡な記憶を想起したエッセイを読んだことを思い出す。

朝になってコーヒー豆がないとなると一日が始まることなどあるまいという怖れから、これはたえず買い足しているし、最近では、こちらのコーヒーの好みを察知された女性の友人や知人の方々が送って下さったり持参されたりするので、それを絶やすことなどまず考えられぬ。ところがフィルターの方はというと、それが自宅に存在しているか否かを考えたことなどまずないといってよい。一日にほぼ一度使うものだから、一年に三六五枚ほどあれば充分なはずだが、それを集めたパックにフィルターが何枚入っているかと思ったことなどまずなかったし、それがいつかは尽きるはずだから、なくならぬうちに買いだめしておこうとする気もさらさらない。

まあそれはそう、と思うのだが、この些細な不在から半世紀以上前の記憶を喚起するのだから、やっぱり蓮實は怪物と言わざるをえない。

僕はといえば、そういえば蓮實がこんなこと書いていたなー、と高々数ヶ月前の、それもフィルターの不在という事実に近接した記憶すら引っ張り出すことができない。

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