【日記のための読書案内】千葉雅也『センスの哲学』前編

本連載では日記を書くにあたってのヒントを与えてくれるような本を紹介したいと思います。

第一回で取り上げるのは、今年の四月に出た千葉雅也さんの最新刊『センスの哲学』です。ここでは本書を僕なりに読解しながら、日記を書くための一つの態度を抽出してみたいと思います。まずは前半部分から、「日常を意味でなくリズムとして書く」態度について。


意味からリズムへ

私たちの生活は意味で溢れています。言葉を換えれば、ある目的のために配置された情報で満ち満ちています。

たとえばどこかに出かけようと思って電車に乗る場面を想像してください。

駅のホームで到着案内を眺め、乗るべき電車があと五分で到着することを知る。ちょっと喉が渇いているので自動販売機に並ぶ商品のラベルを吟味してみると、「新発売」と書かれたペットボトルのお茶があって、興味本位に買ってみる。いざ来た電車に乗り込んでみると、脱毛サロンの中吊り広告に目が留まり(どうやら初回は半額らしい!)、店の名前を検索してみる。

なんてことのない生活の瞬間ですが、ここにはいくつもの意味がたくさんあることに気づくはずです。

いうまでもなく駅の時刻表は、「○○時○○分にどこどこ行きの電車が到着する」という意味を示しています。またペットボトルのラベルや中吊り広告には、「新発売」や「半額」といった言葉の背後に「この商品を買ってください」という売り手の思惑が隠されています(どうやらその狙いが隠蔽されればされるほど広告としては優れたものということになるようです)。それはもはや意味というよりも、意図と呼んだ方が良いかもしれませんが。

ともかく、身の回りにははっきりとした意味のために言葉やオブジェクトの配置が計算されたもので溢れています。私たちは生活の中で絶えずその意味を解釈しようと、言葉やオブジェクトの背後に潜む情報を引き出そうとしているわけです。

その試みがうまくいった状態が、一般にいう「円滑なコミュニケーションの取れた」状態であるということになるでしょう。ちょっとややこしい表現を使えば、「他者と同じコードを共有している」状態であるといえます。「空気を読む」とか「忖度する」とかはそうした意味解釈の高度な技法です。

でもよく考えてみると、電光掲示板は単に「18:13 東京」と書かれたオブジェクトにすぎないわけです。時刻がオレンジ色で、終点が黄色で書かれていること、それらがドット文字で示されているということは、私たちが取り出した「○○時○○分にどこどこ行きの電車が到着する」という情報からはすっぽりと抜け落ちています。いいかえれば、色や形をもったただのオブジェクトを「電車が到着する時間」という意味として解釈しているにすぎません。

解釈はもちろん生きていくために必要なことです。世界が何の意味も持たないオブジェクトの羅列としてあなたの前に現れてしまっては、日常生活をまともに送ることはできないでしょう。

しかし、逆説的ではありますが、そうしてものごとの背後に潜む意味を読み取ろうとすればするほど、目の前にある物事への目は曇ってしまう。つまり「どういう形をしているか」ではなく「どういう意味を持っているのか」にしか目が向かなくなってしまう(「どういう形をしているか」に着目する態度は、本書の中でも「フォーマリズム」として紹介されています)。あるいは意味のわからない物事を、無価値なものとして直ちに忘却してしまう。

そこで、一度意味から離れて、ものごとそれ自体を直観的に把握する必要があるのではないか。本書が前半部分で提唱するのは、ものごとをリズムとして捉えるという態度です。

ではリズムとは何でしょうか。本書から引用します。

強いところ、弱いところが「並ぶ」こと、その「並び」がリズムです。

たとえば音楽でいうと、「音が鳴る、止まるの交代」や「オンとオフの交代」、具体的にいえば三三七拍子のパターンなどがリズムです。わかりやすいですね。

そのリズムを、絵画であったり文章であったり、あるいは目の前にあるスタンドライトや餃子にも見出していく。詳しくは本書を読んでもらうにして、とにかく目の前にある色々なものごとをデコボコ=リズムとして捉えていくことの面白さがこの本では執拗に説かれていきます。背後にある(ように思われる)意味を棚に上げて、ただものごとの並び方に関心を向けてみる。反復の中に潜む刺激=差異を丁寧に取り出していく。

「ズレ」だけを書いてみる

この考え方を、「日記を書く」ことに応用してみましょう。

「日記を書く」ことの難しさ、あるいは億劫さとは、ざっくばらんにいえば「何を書いていいのかわからない」ことに起因するものだと思います。より正確にいえば、書くべきことが多すぎる。日記とはある特定の一日に紐づいた文章である以上、その日起こったことの全てを書かなければならないような義務感を抱いてしまうことがあるわけです。

日記を書くぞとパソコンの前に構え、「ああ朝にいつも通り食パンを食べたなあ」とか、「今日も電車が混んでいたなあ」とか、朝から時間順に一日を再現してみて、でも一体何を書けばいいんだと悩んでそのままパソコンを閉じたことはありませんか。

あるいは印象的な出来事があったとして、そのことについて深く考えてしまうあまり筆が止まってしまった経験があるかもしれません。あの人はああも考えていたかもしれない、あるいはこうも考えていたかもしれないとさまざまな可能性を考慮した結果、二時間も書いたのに結局まとまりのない文章になってしまってそのままゴミ箱行き、みたいなことがしょっちゅう起こってしまう。まあ端的にいって、日記に長い時間をかけてしまったら継続は極めて困難です。

もしあなたが日記を書いてみたいと思うのならば(ここにはすでに継続したいという欲求が含まれているはずです)、日記なんてものはさらっと書けなければいけません。パッとパソコンなりノートなりを開いて、まあ十五分くらいで書き終えてしまう必要がある。そうでなければせっかく望んで始めたはずの日記が、いつの間にか苦行の一種になってしまうでしょう。

そうならないための一つの態度として、「日常を意味でなくリズムとして書く」ことを提唱したいのです。

リズムについて書かれた箇所を思い出してください。リズムとは、「ものごとの強弱の並び」のことでした。その「ものごと」に「日常」を代入して、「日常の強弱の並び」を把握してみることを第一歩としてみる。

日常の弱いところとは、生活の中で日々反復される時間です。たとえば毎日の通勤であったり、あまり関心のない(まあ関心をもつに越したことはないのですが)講義であったり、日々同じように繰り返される時間を念頭におけば良いでしょう。そうした弱いところに、「あれっ」と思った瞬間がないか考えてみる。

なぜ「あれっ」と思ったかといえば、それは間違いなくその出来事が「反復の中に差異として立ち現れたから」です。それを書けばいいのです。いや、その差異だけを書けばいいのです。朝起きていつも通りパンを食べて云々……みたいなことはとりあえず傍におきましょう。コンビニでの会計が777円ぴったりになったらそのことを書けばいいし、作ったパスタがしょっぱくなりすぎたらその味について書いてみる。

反復の中に生じる差異だけを書く

ちょっと今日という日を振り返ってみましょう。今日のあなたの生活の中に、いつもとは違う出来事はなかったでしょうか。

もしパッと思いつくのならば、その出来事について、意味を考えずに淡々と書いてみる。

「淡々と」というのが肝です。とにかく物質的に、目の前の風景を描写するみたいに書く。本書の中で、ラウシェンバーグや餃子について書かれた箇所が参考になると思います。

差異について書くということは、そのことがいつもとはどう違っているのかを書くということです。「いつもは座れない電車に座れた」、「黒ラベルではなく一番搾りを買ってみた」、等々。

でも変わり映えのない毎日だし、そんな差異なんて見出すことすら難しいという場合もあるかもしれません。むしろ生活の中に刺激がないから書くことに苦労しているんだと感じる人もいる多いと思います。海外旅行に行ったり、夜の街に繰り出したりしなければ日記は書けないのか。日記のために、わざわざ日常に変化を導入しなければならないのか。

そんなわけがありません。そうだとしたら、誰も日記なんて書くことはできない(まあこういう考えになってしまうのは、文章≒小説≒私小説、のようなイメージが広く流布しているからだと思います。でも冷静に考えて、別に太宰治にならなくても日記は書けるはずです)。

思い出してみましょう。この記事で提唱されているのは、「日常の強弱の並び」を把握することでした。言葉を換えれば、それは生活の中に規則逸脱を見出すことといえます。

「書くべき内容が見当たらない」という状況は、日常がすべて規則の中に囲い込まれているように思われることが原因でしょう。でも毎日が全く同じわけがないのだから、ここでの規則はあくまで錯覚にすぎません。つまり私たちは無意識のうちに反復の錯覚を見ている。比喩的にいえば、綺麗にならされた土のグラウンドに、赤ん坊のスベスベな肌と同じ滑らかさを認めてしまっている。

では何をすべきなのか。ここで勧めてみたいのが、生活を分解してみること、です。

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