本連載では日記を書くにあたってのヒントを与えてくれるような本を紹介していきます。
第二回で取り上げるのは、青田麻未さんの『「ふつうの暮らし」を美学する 家から考える「日常美学」入門』です。日常美学という比較的新しい学問領域への平易な入門書でありながら、読めば身の回りのあらゆる事象に細やかな視線を向けられるようになる実践的な本でもあります。
日々の生活を「美学的に」捉える
朝ごはんに味噌汁を作る
ここ最近、僕はしばしば朝ごはんに味噌汁を食べています。もう二、三ヶ月になるでしょうか。飽き性の僕にとって、毎朝の味噌汁作りは稀に見る定着した習慣の一つです。
このルーティーンを始めようと思ったのは、たまたまYouTubeで「土井善晴が教える人生が楽になるお味噌汁の作り方」を見たのがきっかけでした。
余った食材を適当に放り込めばいい。味噌を入れればそれは味噌汁である。良い意味で大雑把なこのアドバイスは、「きちんとした生活をズボラにこなしたい」僕にとって青天の霹靂でした。
ちょっと試しにやってみると、確かにものの十分くらいで美味しい味噌汁が出来上がります。味噌汁という調理法のポテンシャルを再確認するとともに、どうしてこんな単純なことをやってこなかったのかとちょっと落ち込んだことを覚えています。
毎朝の味噌汁に「新しさ」を見出す
毎朝味噌汁を食べることには実際的な利点がたくさんあります。余った食材をだめにすることは格段に減りますし、いうまでもなく野菜をたくさん摂って健康になれます。「最悪味噌汁に放り込んだらいいや」という安心感は、スーパーで買い物をする際にちょっと挑戦的なセレクトをする勇気を与えてくれたりもします(余談ですが、躊躇なくごぼうを買えるようになったのは、味噌汁への絶大なる信頼があるからです)。
でも、それだけではないような気がします。節約・健康・環境に優しい……だけでなく、そういった直接的なメリットとは別に、毎朝味噌汁を作ることで日常に対する解像度が上がったような気がするのです。
当たり前ですが、毎朝の味噌汁はそれぞれ全然違う汁物になります。豆腐とネギでシンプルに仕上げることもあれば、ニラと卵でキャッチーな味わいにすることもある。トマトやズッキーニなんかを入れてみて、ちょっと洋風の雰囲気を出してみることもあります。
つまり、味噌汁というベースがありながら、具材で変化をつけていくことができるわけです。100%の繰り返しではないが、ゼロから新しいものを作っているわけではない。
その中で気がついたことは、制約とそこからのズレ、つまり50%のありきたりと50%の新しさこそが、とても新鮮でユニークだということでした。パンを食べたり卵かけご飯を食べたりゼリー飲料を摂取していた時期と比べて、毎朝の味噌汁が独特のものとしてやけに記憶に残る。味噌汁という大枠の中でのズレが、その大枠が確保されていることで際立っている。
側から見れば「ルーティーンを持つこと=平凡さを繰り返すこと」と思われるかもしれませんが、味噌汁を毎朝作ってみて気がつくのは、「ルーティーンを持つこと=新しさが差異として際立つこと」であったのです。
本書では、家具、食事、vlogなどのテーマを取り出し、普通にしていれば見過ごしてしまう生活の細部に、こうした美学的なものの見方がいくつも導入されます。日常美学とは、美術館で芸術作品に向けるような細やかな視線を、日常生活の中にも向けて見ようとする試みであるともいえるでしょう。
「世界制作」へ参加する
「なんかいいよね」を考える
ところで美学という言葉に対しては、日常生活とは切り離された高尚な学問という認識を持つ人が多いのではないのでしょうか。難しそう、とも。なにせ「美学」なる学問を創始したことで知られるバウムガルテンという人の著作は、講談社学術文庫文庫で優に800ページを超える代物です。
美学とは教科書的な理解でいえば、人間の感性のはたらきを分析する学問といえます。何かを目にしたときに「なんの役に立つのかわかんないけどなんか良いよねー」と思ってしまう人間の心について考えるということです。合理的な理由なく心動かされる心の動き、ということですね。専門的にはそのことを指して無関心性と呼びます。
そうした心の分析は、歴史的な理由もあって芸術や自然を対象として発展していきます。
鑑賞者から遠く離れて
すると日常美学とは、歴史的に高級な芸術や壮大な自然にばかり焦点の当てられてきた感性のはたらきを、より身近な次元に適用していく試みということになるでしょう。
その理論はさまざまで、詳しくは本書を読んでもらうほかないのですが、共通する理論上のスタンスもあります。それは「世界制作への参加」というスタンスです。
この考え方を理解するためには、逆に「非」日常美学を頭に浮かべるのがいいでしょう。いわゆる芸術作品に対するものの見方ですね。
美術館で絵画作品に対面するとき、私たちは鑑賞者としてその作品の外部に据え置かれるような印象を受けます。「すごい芸術家がなんかすごい絵を描いているなあ(でも私には直接関係ないなあ)」という感覚を持つ人が大半で、制作者としての自分を想像する人は稀だと思います。
けれども日常美学において、私たちはただの鑑賞者であるとは考えられません。ひとりひとりの感性のはたらかせ方が、まさしく世界を制作することにつながると考えるのです。
たとえば家具の配置や掃除、料理ひとつをとっても、そこには「世界を制作する」ための選択が息づいている。「テキトーに選んだ」ものであっても、それはあなたの感性が良いと思ったものであり、その選択をした以上世界はささやかながら新たに作り替えられている。そうした生活に対する能動的なものの見方を日常美学は教えてくれるといえるでしょう。
日記を書いて世界をつくる
こうした日常美学の考え方が、「日記を書く」ことにつながることは理解しやすいのではないでしょうか。感性をはたらかせて、世界をつくること。個人的な「なんかいいよね」を記述することで、少しずつ世界を組み替えていくこと。
現代は合理性の時代です。とにかく「何かの役に立つこと」が重要視され、それ以外のものごとは軽視されてしまう。いいかえれば、理性で判断可能な対象ばかりがもてはやされている。
ドライな価値観の中で、どうやって感性を磨いていくか。どうでもいいけど心に残ることを、いかにして記憶し肯定するか。
そうした問題を考える上でも、生活の隅々までを対象とする日常美学的な考え方は役に立つのではないでしょうか。日記を書くことは、日常に感性を張り巡らせ、自らの手で世界をつくることだといえるかもしれません。
コメント