GWで旅行に来ている。旅行と言っても、友人の家が持っている山梨の別荘に居るだけである。移動は行くことと、帰ることしかない。居るだけ、そういう旅行である。
昨日は随分はしゃいだ。起きると皆の姿がない。用事があり途中で帰る一人を送っているらしい。
確かに、寝すぎた。外気を浴びながら、木々を眺めて煙を傍に置き、両手でタイピングに勤しむ。久しぶりだ。私は日記なんて書かない。こんな文章は小さい頃通っていた水泳クラブの夏キャンプ終了後に書かされた作文以来だ。でっかい石があったから「でっかい石があった」と書いたのは覚えている。「ありのままの描写の連続」が良かったらしく、水泳クラブの内側で配布される会誌に、一番小さい歳で載っていた。会誌を見て少し誇りに思った数瞬後には、漢字の少ないその文章に、ひねりなく事象の羅列だけがされるその文章に、ひどい恥ずかしさを覚えたものだ。年上は漢字を使うし、「自分の考えや思いや教訓」なんてものまで書いていたのだから。
話は戻って今だ。これは日記だし今を書こう。顔を上げる。視界には、乱雑に立ち並ぶ木が戦いでいる。と思えば、書いている内に風が止み、止まってしまった。嘘をついた、と思った。現在形で書き終えた後に嘘になった今の文章を、私は修正すべきだろうか?鳥の声、外気の音、嬰児の叫び声がする。ジョン・ケージでも流すべきなのか?コレを享受するために?というか日記って一日の終わりに過去形で書くべきじゃ?
まいった。日記にまるで向いていない。私は慣れないことに取り組む際、常に、「べき」の能動による世界への抵抗を通過しないと、それをやめられないらしい。ちょろちょろと動き回っていないと気が済まない。在るが儘の遅さを前に、俺の武器は速さしかない。最近千葉雅也が『センスの哲学』という本を出版した事を思い出す。少し中を見て、またはネットの感想と切り取りをいくつか見たところ、どうやら心の底から共感する本の様だが、単に共感するだけで終わりそうだから買ってはいない。その本のコアは、変化とリズムの概念にある。万象を、意味でなく、リズムで捉える事について。よく分かる、よく分かるぞ千葉雅也。芸術について話すと皆意味の話をするから意味が分からない。速度感だよな。
しかしよくよく自分の記憶や記述をたどると、私はこの概念をリズムでなく「テンポ(しばしば異常という共起語もつく)」「ライブ感」と呼び、それに乗せられる感覚を「ドライブされる」と呼称している事に気づく。規定の速度とその破壊によって駆動される感覚にフォーカスしているらしい。それはリズムか?果たして俺は、千葉雅也を読むべきか?同じになる意味などないというのに。
西日の角度が変わって陽光が差し込む。また四角形ばかり見ていた事に気づいた。歳をとった。なんとか顔を上げて、再び視界の端に目を凝らす。花が咲いていた。品種が、分からない。
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