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2025年2月9日

【運営の日記】時間とは何か

寝る直前、居候している同僚が「今日ルミネに行ったんだけど、何も欲しくなかった」と呟く。そこから話題は「お金がないとものへの欲望が薄れるのはなぜか」「どうして大人になると関心の持てるものが少なくなっていくのか」「なぜ子どもは時間が流れるのが早いのか」と抽象的な方向へと変化していき、理論的なモデルを作っては壊しながら、世界の本質へと迫っていく(気がした)。

一連の問いは最終的に「主観的な時間とは何か」という問題へと帰着する。そこで提唱されたのが、「主観的な時間とは影である」というモデルである。

私たちは同じ二十四時間を生きている。しかしそこで感じられる時間の長さは人によって異なる。客観的な時間は等しいはずなのに、主観的な時間が各人によって異なるのはどういうことなのか。

まずは客観的な時間を、地面に立てられた板のようなものだと考えてみよう。その板の面積は、地面にまっすぐ立てられていようと、横になって置かれていようと変わることはない。

しかし、立てられた板の「傾き」によって、板が地面に落とす「影の大きさ」は異なってくる。まっすぐ立てられた板は小さな影しか作らないし、横倒しになった影はその板と同じ面積の影を作ることだろう。

主観的な時間とは、その影の大きさが示すものなのではないか、ということだ。そしてその板を傾けたり、立て直したりする力こそが、たとえば「日々の労働の重さ」であったり「持っているお金の多さ」といったパラメーターなのではないか。

つまり私たちは、大人になるにつれて「板をまっすぐに立てようとする力」に抗えなくなってくる。そして主観的な時間=影は次第に小さくなっていき、いつの間にか途方もない時間が過ぎ去ってしまったことを悲しく思う。

まあ、こういうモデルを練り上げてみた。「じゃあ板を傾けたりまっすぐにしようとしたりする力ってなんなんだよ」という問いが自然と生まれてくるわけだが、それを考えると夜更かしがすぎるような気がして、話はそこで切り上げることにした。


寝る前は大層な理論を作ったものだとお互いテンションが上がって眠気も吹っ飛んでしまったわけだが、改めて書いてみると、たいしたことを言っていない気もする。

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