家近くのかぶら屋でひとりビールを飲む。
冷蔵庫が空っぽ&ちょっとお酒を飲みたい気分になると、時折ふらっと寄ってビールを二杯くらい飲んで帰ることがある。この店舗が気に入っている理由は、そこで働いている若者たちが抜群に若々しいからだ。
大衆居酒屋でアルバイトをしている大学生をそのままイメージ通りにこなしているような雰囲気。カウンターの向こう側で、男の店員が女の子をデートに誘ったりしている様子を見ると、仕事とかややこしい哲学とか書きたいのに書けない小説とかそんなことがぜんぶ本筋から外れたサブのエピソードであるような気がして、全身がスッと綺麗になるような感じがある。
そこでたまたまXで流れてきた「キャバクラに行く意味」という記事を読んで、無性に寂しい気持ちになった。

多くの会社の中間管理職もそうなんだろうと気づいたときに、世の男たちがキャバクラに行く意味がわかったのだ。あのエウレカの瞬間は今でも覚えている。世の多くの男たちは、社内で不毛な上司たちのご機嫌取りをさせられており、今自分がしている仕事の多くがあまりにも不毛であること、常に謝罪を強要されていること、しかし生活のために仕事を辞められないこと。このジレンマの中で精神がおかしくなっているのだ。そして、それを癒せるのは性的なサービスではなく、瞬間的な心理的幸福感なんだと思う。自分があれ以降、毎日妻のおっぱいの間に挟まってから仕事へ行くようになったように、一部の男たちはキャバクラに行ったり、風俗に行ったりするのだ。あれは性的サービスというよりはケアサービスなのだ。そこから考えると、最近の推し活の意味もわかってきた。なぜあれほどまでにアイドルやキャラクターに入れ込むのだろうと不思議に思っていたが、あれは現実逃避というわけではなく、本人の心のケアのための活動なのだろう。それほどまでに現代社会は過酷なのだ。
別におっぱいに挟まれたいともキャバクラや風俗にも行きたいとは思わないが、ちょっと疲れた時に、細かい調整やら約束をすることなく誰かに会えるような環境を僕自身も求めているのだと思った。誰が誘うでもなく、「あ、じゃあ遊ぼうよ」くらいの感覚で人と会いたいのに、結局一週間やら二週間先の誰かのスケジュールを押さえることしかできないのは虚しい。
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