【日記のための読書案内】千葉雅也『センスの哲学』後編

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生活を分解してみる

前編では、千葉雅也さんの『センスの哲学』を読解しながら、日々の暮らしの中に生起する差異だけを書く日記のあり方について考えてきました。そして差異を見出す方法として、生活を分解してみることを提唱しました。

でも生活を分解してみるとは具体的にどういうことでしょうか。

ここでは連続している一日の時間を、さまざまな要素の並びとして捉えることを考えてみたいと思います。

普段の生活をぼんやりと思い出しながら、一日を大きなブロックに分けてみる。まずは大雑把で構いません。退屈で代わり映えのしない日々の反復が、どのような構成になっているのかを把握してみる。ちょっとここで実践してみると、

朝起きる。朝ごはんを食べる。通勤の電車に乗る。仕事をする。帰りの電車に乗る。夕ご飯を食べる。読書をする。風呂に入る。眠る……

すでに馴染んでしまった生活だから、書き起こしてみても馬鹿馬鹿しく思えてくるかもしれません。

でも、分解した普段の生活とその日の生活を見比べてみると、二つの間には確かにズレを見出すことができるはずです。つまりこれまでの一日とは違った瞬間が浮き出て見えるようになる。

たとえば、いつもは朝ごはんを食べないのに、昨日のおかずがちょっと残っていたから今日はちょっとお腹に食べ物を入れたことに気がつくかもしれません。あるいは普段は風呂に入る前に夕ご飯を食べているのに、今日はご飯を炊いている時間を使って先にシャワーを済ませたなんてこともあるでしょう。

一回目の分解ではその日のズレを見出せない場合もあるはずです。その時は、まずはじめに分解した要素をより細かく分解してみればいい。

「夕ご飯を食べる」という要素も、

スーパーに行く。食材をカゴに入れる。レジで会計を済ませる。レジ袋を持って家に帰る。冷蔵庫にしまう。米を炊く。食材を切る。炒める。盛り付ける。食べる……

といくらでも要素に分解することが可能です。

そうやって考えてみると、たとえばいつもはエコバックに食材を入れるのにたまたま持ってくることを忘れたからレジ袋を五円で買った、だとか、普段はそのまま捨ててしまうトマトのヘタをスープの出汁に使ってみた、だとか、色々なズレがあることに気がつくはずです。

そうした要素の欠如や追加、あるいは配置の転換に目を向けてみる。日記を書くべき瞬間とは、日々の反復を構成している要素の配置がズレた瞬間にあると考えてみたらどうでしょうか。わざわざ海外旅行に行かずとも、目の前には日記の瞬間が無数に散りばめられているような気分になりませんか。

ボケるために日記を書く

ここでは日記を書くという行為を、

  1. いつもの生活の構成を把握する
  2. その構成からのズレを捕まえて書く

という二項から考えています。

この考え方には元ネタがあります。これまた千葉雅也さんの『勉強の哲学 来たるべきバカのために』です。

本書では勉強というものを、自明視している環境のコード(=ノリ)を転覆する破壊的な営みとして定義し、そのための技法としてツッコミとボケという概念について深く掘り下げています。

本書によると勉強とは、

  1. 最小限のツッコミ意識:自分が従っているコードを客観視する
    その上で、
  2. ツッコミ:コードを疑って批判する
  3. ボケ:コードに対してズレようとする

ものです(最終的にツッコミとボケは、著者が専門としている哲学者のドゥルーズの図式に従って、アイロニーとユーモアという言葉によって置き換えられます)。

日記を書くという行為は、「自分が従っているコード」=「習慣化された生活の構成」を把握し、そのコードからの「ズレを描写する」という営みでした。つまり習慣・反復に対するツッコミの意識が働いているといえます。

あえてズレようとするわけではないけれど、結果的に生じてしまったズレを見逃さないこと。日々の生活にツッコミを入れ続けること。

日記を書くことで、生活の中に無数のズレが蓄積されていく。すると「どうしようもない」と思える状況に追い込まれたときでも、その「どうしようもない」コードが、実はきわめて不確定なものであり人生を丸ごと包んでいるわけではないことに気が付くはずです。絶望的な状況なんてものは、ただ今の自分が錯覚しているコードにすぎない。これまで書いてきた日記の中には、「どうしようもない」状況からズレ続ける生活の細部が記されている。

ではそのズレを意識的に演出してみたらどうだろうか。それこそがボケるということです。巷でよく言われている言葉を使えば、行動するということです。

つまり日記を書く=ツッコミを入れるという行為が、意識的な生活の変化をもたらす土台となる。ビジネス書やYouTubeでしばしば説かれている「日記を書くことの効用」とは、ボケ=行動を起こすための指針として日記を捉えているものともいえるでしょう。

話が少し脇道に逸れました。ここまでの内容をまとめてみましょう。

  • 日記を書くことは、意味から離れリズムを捉える行為である

では具体的にどうするか。

  • まずは日常=コードを要素に分解してみる
  • 次にその日の出来事を、日常の要素とのズレとして認識する

そのズレが蓄積されることで、

  • 日常=コードは定まったものではなく、不確定なものであることに気がつく
  • 習慣から意識的にズレる=ボケる=行動するための指針を得る

長生きするために日記を書く

日記を書こうと思って一日を始めれば、一日の中に奇跡が満ち溢れていることに気づくはずです。

私たちが子供だった頃、大人が「もう一年経ったなんて信じられない」と嘆いている姿を見た経験があるでしょう。毎日同じことの繰り返しで、気がつけば途方もない時間が経過してしまった、と。

「そんなことありえない」と思っていたのに、確かに最近は時間が過ぎるのが早いような気がする。そんな感覚を抱く人もいるかもしれません。

生活に刺激が足りない。日記を書くべき瞬間なんてものはない。

そんなことはありません。

わざわざサファリパークに行かなくても、ちょっとアンテナを張ってみたら、生活の中には未知なるものごとがいくつも生起している。

あえてキャッチーな言い回しをしてみましょう。

日記を書けば、長く生きることができる。

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