「世界制作」へ参加する
「なんかいいよね」を考える
ところで美学という言葉に対しては、日常生活とは切り離された高尚な学問という認識を持つ人が多いのではないのでしょうか。難しそう、とも。なにせ「美学」なる学問を創始したことで知られるバウムガルテンという人の著作は、講談社学術文庫文庫で優に800ページを超える代物です。
美学とは教科書的な理解でいえば、人間の感性のはたらきを分析する学問といえます。何かを目にしたときに「なんの役に立つのかわかんないけどなんか良いよねー」と思ってしまう人間の心について考えるということです。合理的な理由なく心動かされる心の動き、ということですね。専門的にはそのことを指して無関心性と呼びます。
そうした心の分析は、歴史的な理由もあって芸術や自然を対象として発展していきます。
鑑賞者から遠く離れて
すると日常美学とは、歴史的に高級な芸術や壮大な自然にばかり焦点の当てられてきた感性のはたらきを、より身近な次元に適用していく試みということになるでしょう。
その理論はさまざまで、詳しくは本書を読んでもらうほかないのですが、共通する理論上のスタンスもあります。それは「世界制作への参加」というスタンスです。
この考え方を理解するためには、逆に「非」日常美学を頭に浮かべるのがいいでしょう。いわゆる芸術作品に対するものの見方ですね。
美術館で絵画作品に対面するとき、私たちは鑑賞者としてその作品の外部に据え置かれるような印象を受けます。「すごい芸術家がなんかすごい絵を描いているなあ(でも私には直接関係ないなあ)」という感覚を持つ人が大半で、制作者としての自分を想像する人は稀だと思います。
けれども日常美学において、私たちはただの鑑賞者であるとは考えられません。ひとりひとりの感性のはたらかせ方が、まさしく世界を制作することにつながると考えるのです。
たとえば家具の配置や掃除、料理ひとつをとっても、そこには「世界を制作する」ための選択が息づいている。「テキトーに選んだ」ものであっても、それはあなたの感性が良いと思ったものであり、その選択をした以上世界はささやかながら新たに作り替えられている。そうした生活に対する能動的なものの見方を日常美学は教えてくれるといえるでしょう。
日記を書いて世界をつくる
こうした日常美学の考え方が、「日記を書く」ことにつながることは理解しやすいのではないでしょうか。感性をはたらかせて、世界をつくること。個人的な「なんかいいよね」を記述することで、少しずつ世界を組み替えていくこと。
現代は合理性の時代です。とにかく「何かの役に立つこと」が重要視され、それ以外のものごとは軽視されてしまう。いいかえれば、理性で判断可能な対象ばかりがもてはやされている。
ドライな価値観の中で、どうやって感性を磨いていくか。どうでもいいけど心に残ることを、いかにして記憶し肯定するか。
そうした問題を考える上でも、生活の隅々までを対象とする日常美学的な考え方は役に立つのではないでしょうか。日記を書くことは、日常に感性を張り巡らせ、自らの手で世界をつくることだといえるかもしれません。
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