充実から遠く離れて

前置き

京大文学部の同窓会誌『以文』に掲載させてもらったエッセイです。商業誌でもないし多分載せてもいいはず……ということでこっそり公開しています。怒られたら引っ込めます。ぜひ。

本文

僕の大学生活は退屈に彩られていた。十時くらいにようやく万年床から這い出すと、お湯を沸かし、コーヒーを淹れる。さて今日は何をしようかとぼんやり考えながら、本棚で埃を被った積読の山から適当な一冊を取り出して、パラパラとめくる。気がつくと昼過ぎになっていて、お腹が空いてきたからと外出する理由を拵えて重い腰をあげる。大盛りのラーメンを食べると、このまま家に帰るのも勿体無いと思う。大学まで自転車を飛ばし、ベンチで本の続きをパラパラと眺めながら、文学部東館の写真を撮ったりする。それにも退屈してくると、古本屋を訪れて三百円くらいの本を買う。もう日が暮れてきた。映画館に行くのは明日にしよう。そう思って帰路に着くと、友人から連絡が入っている。フレスコで半額になった唐揚げと缶ビールを六本ばかり買って友人の家に向かい、くだらない話で夜を溶かす。

そんな生活ではあったが、それなりに僕は勉強をしていた。スラブ専修であったにもかかわらずロシア語は大して身についていないし、ベルクソンが何を言っているのかはいまだよくわからないが(それはあくまで僕の怠惰による帰結である)、それでも人並みに本を読んで頭を使ってものを考えていたと思う。

とはいっても、それは充実という言葉からは遠く離れた勉強であった。輝かしい未来に向けて自らを鍛錬していたのではなく、ただなんとなく退屈だから勉強をしていた。友人が自らの関心を楽しげに語る姿を見て、自分にもできるかもと試し試しに難しそうな本を手に取っていたにすぎない。正直なところ、何かを身に付けたという実感はあまりない。

しかし僕はその時間を幸福な人生の一コマとして思い返す。この文章を書きながら改めて自分の怠惰に幻滅しているにも関わらず、僕が過ごした日々は間違いなく最適解であったと確信してしまう。

なぜなのだろうか。酒盛りにしてもラテン語の勉強にしても、それらが自らの成長に資する時間だと思ったことはない。しかし僕はそうした時間を、ふとした生活の隙間で生々しく思い出す。

よく考えてみれば、文学部で出会った友人たちの多くは僕と似た人間であったような気がする。具体的な目標から逆算してすべきことを定めるのではなく、ただ今その勉強をすることの意味だけを問うていたらうっかり徹夜をしてしまう、そんな人間たちが集まっていた。深夜の公園で「非論理的論理学について」などという今思い返しても全く意味のわからない構想について果てしない議論を交わした夏の夜を思い出す。それは遊びと勉強の境界で笑い転げる時間であった。京大の文学部では、ドッジボールをしたりテレビゲームをしたりすることと全く同じ地平の上に、勉強をすることがあったのだと思う。


僕はこの春に京大を卒業した。今は東京の出版社で、新入社員としてそれなりに忙しない生活を送っている。朝早く起きて、満員電車で縮こまりながら会社に向かう。昼食後にほんのり湿った布団に横になることなく、目を擦りながらパソコンに向かう。見違えるような生活だ。そこにかつての退屈の影は薄い。自信を持っては言えないが、充実した生活であると思う。

仕事終わりにふと書店に立ち寄ると、「教養としての」と題したたくさんの本が平積みになっている。その光景を見ると、僕は言いようもない虚しさに襲われる。哲学や文学など、僕が五年間の(ここに注釈は必要ないと思う)大学生活の中で、退屈しながらも懸命に学んだいくつもの主題が、成長だとか未来への投資だとかいった価値に貶められているように感じるのだ。分かりもしない本を読み、発展性のない議論を繰り広げていた僕たちの幸福な日々が、無意味なものとして軽んじられているように思えてしまう。僕たちがカントを読んでいたのは、ただその時間が自立した価値を持っていたからだ。原っぱを駆け回るように勉強をしていたその喜びが、そこでは何らかの手段として軽んじられているような気がしてしまう。

そういうひねくれた見方をしてしまうのは、文学部で退屈な勉強に向き合ってしまった人間が持つひとつの宿命なのかもしれない。そして大学を卒業してしまった僕は、無意味を愛する自分と意味を求める社会の要請との間で不毛な葛藤を繰り広げるほかないのかもしれない。

僕は手段としての勉強に対して反旗を翻していきたい。時間を有効に使うなど考えず、ただ学ぶ時間を愛していきたい。忙しさに殺されるのではなく、忙しさから遠く離れて、退屈に殺されるような日常を絶えず追い求めていきたい。

とはいえそれは困難な営みだ。たかだか数ヶ月働いただけで、無駄な時間を削らなければなどと考えたりしてしまう。やはりあの日々はあまりにも純粋な時間であった。充実という言葉が忙しさの同義語として認められている現在において、退屈な充実を謳歌した文学部での日々は、何にも代え難い貴重な時間であったことを痛感するばかりである。

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