友だちと渋谷の映画館へ行って、ブレッソンの『白夜』を見る。
既にスタイルを確立した老練の映画作家が、生真面目な作風から離れて遊びを入れてみた、という趣。かつて盗みを働くシリアスなものとしてクロースアップされた手が、女性の背中に手を回す遊び人のそれとして画面に現れる。ブレッソンがふざけた映画を真面目に撮り出したらそれはそれで面白かっただろうなと思う。
帰りに少しだけ仕事の話をした。かつては「わからない」ことが恥だったのに、労働の中では「わかりにくい」ことが悪とされること。それは受け手から送り手へと立場が変わったことによる変化なのだろうし、そう考えると必要な変化なのだろうとは十二分に納得しているつもりだが、しかしある種のカルチャーショックは覚えざるをえない。僕たちがややこしい議論を追いかけてばかりいたのは、その変化に対応する上では間違いなく悪影響を及ぼしている。
しかしそれでもなお、わかりにくいものはわかりにくいという理由だけで否定されてはならないし、わかりやすいものをわかりやすいという理由だけで肯定してはならないと思う。やるべきことはその中間地点にある。ブレッソンだってその間で色々と葛藤して『白夜』を撮ったのだろう。
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