今日の僕はよく喋ってくれる日だった。
午前中は弊社で運営管理を行っている公園で活動するボランティア団体との打ち合わせがあった。樹形が綺麗な木を剪定した弊社にブチギレているジジババに対して「高齢な木は呼吸が浅いので、今回の剪定は自然に配慮したカーボンニュートラルである」と、我ながら意味のわからない理論で返答し、コンサル会社員として流石の立ち回りを見せていた。
午後にはオフィスの緑化にガジュマルが良いか、コケリウムがいいかを上司と談笑していたし、「さっきから笑ってばっかだけどちゃんと仕事してるのか」と絡んできた社長に対しては「おかげさまで仕事が楽しくて」と適当に返事を返せた。
昔はよく喋るクソガキだったが、大学院生の時に読んだ本に『会話はバケツリレーではなく、約束事の積み重ね』と書いてあった。 その考えに出会ってから、メンタルとの兼ね合いで週に3,4日上手く喋れない日がある。
会話が「自分はこうである」と世の中に約束する事だとすると、誰かと話すたびに、自分の形が確かなものになってしまう気がして、なんだか面白くない。
そういう意味で日記を書くのは少し怖い。今日出会った感覚を文字にして世の中に生み出すことで、「僕が今日、感じた事」が、「僕はこの事象にはこう感じる」という約束事に変換されてしまうのではないか。
もっと刹那的で、明日には変わっていくような儚い自分の感覚を楽しみながら生きていきたい。「毎日違う感覚と出会いたい」、そんな煩悩が僕の中にはあるのだろう。
ここまで書いてみたけど、むしろ日記は僕の煩悩に寄り添ってくれる作業であるのかもしれない。
明日の僕はもう少し上手く喋れているだろうか。
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