普段日記は何かおもろいことがあった日にだけ書く。 旅行の日、試験の日、フラれた日。 その日記は食べたものから移動時間まで事細かに記され、例えばヨーロッパに3週間行っていた時には全体の日記が6万字になった。研究室での論文執筆もそれくらい進んで欲しいものである。 友達から回ってきたこの日記の担当日である6/6は、もともとは日記になるはずではない一日だった。しかしよくよく考えてみると、ある種の非日常でおもろい日だった。
珍しく、料理をしない日だった。 京都の下宿から横浜の実家に帰ってきている。もともと、GWとか正月とか盆とかの帰省にはあまりこだわりがなく、気が向いた時に年に数回帰省する。今回は少し長めに5泊の帰省だった。ご飯は親が作ってくれたり、こっちにいる友達と外食したり。 僕は京都の下宿で人に料理を振る舞う会を週2−3のペースで行なっており、その下処理や料理のために、基本的に毎日包丁を握っている。 継続の成果もあって、一般人の自炊レベルからはだいぶ逸脱してきた自覚はあるが、その上で達した結論がある。 「人の作った飯がいっちゃんうまい。」
人が作った飯はうまい。 それは精神面で言えば、人がそれまで磨いてきた技術を使って自分のために料理をしてくれるという行為が得難いものだからだ。 そして物理面で言えば、食べるまで味の予想がつかない楽しさがある。自分の料理は作っているところを見ているし味見もするから、食べる段階では驚きがなく飽きる。 今日朝ごはんに食べたブドウパンはやっぱり親の愛情の味がしたし、夜ご飯の中華料理屋で食べた白菜と餅のスープはこんな組み合わせアリなのか!という目新しさに驚いた。できることなら毎日、いろんな人に料理を作ってもらいながらのんべんだらりと生きていたいものだなぁと思う。
でも、包丁を握らない日は少しだけそわそわする。 それは料理が自分にとって、人に幸せを届けた証拠になるものだからだ。 料理より人を幸せにできる行為を僕は知らない。三大欲求のうち唯一誰もが干渉できる食欲を満たせるのが料理だ。 中高で軽いいじめを受けた時に、味方でいてくれた友達が本当にありがたかった。それから、自分の近くにいることを選んでくれた友達たちは絶対に幸せにするし、こいつの味方を選んでよかったわと思ってもらえるように生きると決めた。
人にご飯を作ってもらった時にもう一つ嬉しいのは、自分が普段人にご飯を作ることもこれくらいの幸せを生み出してるのかもしれない、えへへとなることだ。 これからも時々、(お前なんかに作りたくないわと嫌がる)友人たちを拝み倒して、ご飯を作ってもらう幸せを享受しつつ、料理で人を幸せにし続けていきたい。
明日は親に京都での修行の成果の会席を作り、たまの親孝行でもしようかと思う。
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