通勤の電車で星野太さんの『崇高のリミナリティ』を読む。
まだ半分も読んでいないが、「崇高」の概念を多角的に知ることのできる好著だと思う。ごくごく大雑把にいえば「でっけ〜! すっげ〜!」ものとして定着したこの概念を歴史的に跡付けつつ、その拡張を試みる一冊。
「美」に対置される概念として「崇高」を定めたエドマンド・バークを嚆矢とする美学的崇高。その系譜からこぼれ落ちたのが、人を興奮・高揚させる演説や弁論に用いられる言葉としての「崇高」であった。そうした修辞にすぐれた文体は、(偽?)ロンギヌスの『崇高論』なる書物において「崇高体」として定着する。
しかし僕たちのよく知る「崇高」とは、修辞学としての崇高ではなく、途方もなく大きな自然に対して抱く心の働きとしての「崇高」だ。
それは先に触れたバークによって提起され、カントが『判断力批判』で明快に理論化した「崇高」の概念である。この概念は近年、その対象を自然から芸術へと拡張しているのだが、そこには一つの限界がある。「「崇高」はそれ自体としては表象不可能な「理念」を間接的に——ということは暗示的に——表象するもの」なのだ。超越的なものには決して辿り着けない。
というのも、この「崇高」とは、決して到達できないが、到達できないという事実の中に対象の存在が浮かび上がってくるようなものだからだ。
そうした限界を拡張するべく、本書(とおそらくは著者の博士論文である『崇高の修辞学』)では、美学的崇高でなく修辞学的崇高の系譜を辿りながら、身近な会話や言葉に「崇高」を見出すべく進んでいく。
昨年から断続的に美学を勉強しているのだが、最近は少しサボりがちだった。しかし家の近くに図書館があることに気がつき(もう半年も住んでいるのに!)、棚に並ぶ美学関連の本を見てテンションが上がる。一気に本を四冊も借りてしまい、近々『判断力批判』と対決しようと胸を高鳴らせている。
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