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2024年9月3日

【大麦こむぎさんの日記】季節の変わり目

水出しのお茶を麦茶からほうじ茶に変えたら秋がやって来た。最高気温は昨日より7度も下がったらしい。冷房を入れずとも窓を開ければ涼しい風が入ってくるし、夜に鳴く虫の声が1オクターブ高くなった。

「おすすめ」という名のカオスなタイムラインに、あるドラマの批判的な意見が流れてきた。登場人物の1人を擁護する形で、別の人物の理解が出来ない行動の数々がとにかく腹立たしい、といった内容だった。わたしはその作品内で誰か特定の登場人物に感情移入しながら観ているわけではない。それでも、擁護されている登場人物がこの投稿を見たら悲しむだろうな、とは思った。比較されて、あなたの方が可哀想、だなんて絶対に思われたくないだろうな、と。

登場人物の誰にも共感出来なかったとしても作品として面白いことはある。共感出来ないから面白くないわけでは決して無いし、むしろ共感出来る部分がない登場人物だとしても好きになることだってある。 近年、ドラマは「共感」よりも「肯定」にシフトしてきているのでは?という気もしないでもない。共感と肯定は似ているようでちょっと違う。作品内の誰かに自分を投影しなくても、視聴者である素の自分のまま受け入れてもらえるような、肯定してもらえるような、そんな台詞が多くなってきたように感じる。

大きな主語で「この作品はつまらない」と言っている人のコメントをよくよく読むと、自分の思い描いていた筋書き通りに進まなかったことへの疑問や怒りだったり(私だったらこうするのにあり得ない、とか)、共感や理解ができないからという理由だったりすることが意外と多い。作品自体の評価では無いのでは、と思うものの、どう考えるかは人それぞれだし、結局のところわたしだって正しい作品の評価って何?と聞かれたら分からない。それに批判が全部悪いわけではない。批判だって評価なんだから。

だけど、その作品内で生きている人に共感できるというのなら、その作品内で生きている理解できない登場人物だって「人」なんだよ、とは思ってしまう。わざわざハッシュタグをつけて批判しなくたって、と思うけど、きっと「嫌なら見なければ良い」と言われるだけだ。その通り。その通り、なんだけど。

そんなことをぼんやりと考えながら冷蔵庫の夏野菜をありったけ集めて、おそらく今年最後となる夏野菜カレーを作った。いつもよりちょっと辛口な日記になってしまったのは、カレーの影響なのかもしれない。

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