10月20日(日)に自分が所属しているサッカークラブが優勝決定戦を制して優勝を決めた。僕は怪我でピッチを離れていて、今は監督をしている。ピッチに立てない分、声を枯らして指示を送り、得点には我を忘れて歓喜し、失点にこの世の終わりを見たように落胆する。
様々な感情が一堂に会し、80分の中で最大限ネガにもポジにも振れると、試合が終わった後に言葉にしたのは「人生の中で一番幸せな瞬間だったかも」だ。その日は興奮して上手く眠れなかった。
10月21日(月)僕はいつも1日の日記を鮮度が落ちないうちにノートに書くのだが、今日は朝のうちにノートが半分埋まった。
「あれ、ない…昨日手にしたはずの幸せがどこかへ行ってしまった」
不思議なことに昨日の幸せが半分ぐらい消えている。せっかく手に入れた幸せが逃げていく、なんとか言葉にして取り戻さなければと思ったのだ。
僕が昨日手にした幸せには思えば、色んなものが混じっている。
手にしたかった結果が得られた嬉しさ、手にできなかったらを考えてずっと縛られていた緊張からの解放感、仲間と抱き合って喜んだ時に感じたみんな同じ方向を向いてたことを確認できた安堵感、監督としての仕事への自信、他にもきっと探せば見つかるポジティブな感情だけを感じることができた。
しかし、一晩経ちその興奮が冷めると、当時の幸せを構成した要素のうちいくつかがスーッと抜けているのを感じた。そして不思議なことに空いたスペースに入ってくる次の戦いへの不安と緊張、もっとやれたであろう采配への反芻、昨日は気にも留めなかったネガティブが入ってくる。
リテンション【retention】保持、維持
もしも僕らがあの日の幸せを悔しさをあの日の熱さ、冷たさのまま、輝きのまま、保持することができたなら、僕らはきっとその日にとどまることになる。
忘却の果てにある思い出の薄れには寂しさも恐怖もあるけれど、その日が幸せな日があったことは事実である、、その感じ方が心の奥に仕舞われるだけで。
オリンピックに出た教え子が「オリンピックに出ても人生は変わらなかった」と言っていたけれど、僕らは人生のイベントに大きな期待をし過ぎているのかもしれない。
イベントの後の幸せの大きさは確かに麻薬のような強さがあるものの、日常にある小さくても日々丁寧に感じられる幸せの方がよほどちゃんと見つけてあげなければならないのではないだろうか。
コメント