島にきてから、まずは島のことを知ること、と思ってここまできたが、そもそも何を知ったら島を知ったことになるのだろうか?
- 人口、経済規模
- 人々の話し方、表情
- 食べているもの
- 気候、土壌
- 財源
- 政治参加度
ある地域をはかる指標ってなんなんだろう。 でも、ぼくが「島を知る」というとき、指しているのは、そうした指標を知って空欄を埋めていく作業とは違うだろう。なにかもう少し島のコアというか、あるいは茫漠とした空気感というか。 ただ一方で利尻島というのは固有名詞=ゼロ記号で、本質などというものはないのだろう。 また一方で、島を特徴づける色々な要素があるのも事実だ。これがないと利尻島でない、という命題が成り立つ何か。
ある土地を知るとはどういうことか、考えてみよう。
ともあれ、失われなかった前半部分で私にとってもっとも印象深いのは、朝鮮の自然描写、特に洪水のシーンである。毎年夏に朝鮮を襲う大雨のなかで、川があふれ、そこにマクワ瓜が流れキュウリが流れ牛豚が流れ家が流れて、その屋根の上には流された家族が乗っている。岸辺の子どもたちは、喚声をあげ、水際に寄せてくるマクワ瓜やスイカに手を伸ばす。掴んでいた柳の木が根元から抜け、濁流に落ちて呑み込まれてしまう子どもといる。それを見た大人たちの叫び声。この日本とは異質な自然、その力が、ここに書き留められている
黒川創『国境』(河出書房新社:2013)p.292、 湯浅克衛『カンナニ』に寄せて
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